ニケきゅんを腐った方向に見てる自分がいるのは自覚してるが、ニケほどヒロインにキャラ性が依存してるキャラだとなんか他で萌えようがないよな。彼女がいるとか奥さんがいるとかそんな次元じゃないからな。勇者ヒロはフリトとの友情に当時も再読時も結構別腹で萌えてた(っていうかアレは作者も別腹萌えだと思う)けど、そういう美味しい絡みもほぼないし……。
昼間も言ったけど、
勇者ヒロと勇者アバンの心の強い支えが愛する姫であるのは前提で、もしも彼女達がいなくてもあいつらは勇者だろーなー、ってなるんだけど、
勇者ニケってククリがいなかったら多分勇者ですらないんだよ。だからククリから切り離して萌えようがないんだよな、私の中で。
まあ
それはそれとして原作でちんちんを触られたり、アニメでプリケツ晒してるのはスケベな目で見まくるけど……(ゴミ)逆に
花散峪山人考の伊波冬矢は、初美がいなくても冬矢であるのかもしれない、って最終章を思い返すとちょっと思う事がある。兄貴分や山人と期間限定の友情や恋をしている少年の姿も、京香さんを本命に、鈴子を純粋に可愛がる子どもとして生きる、ちょっと軟派な男である姿も非常に生き生きと描かれていて、
この幻想はただの幻想ではなく、ここで足を止めても間違いではない、みたいな事は本文中で言われてるんだよな。
冬矢の場合、
別の世界線でも冬矢らしく、なんなら現実より健やかに生きられるという前提の上で、冬矢自身がそこに飲み込まれかけながらも全否定する。というのがミソ。だと個人的には思う。
希さんのご友人の水無神知宏さんがロミオさんと合作した夏夢夜話のように、甘い幻想に浸るエンディングさえも花散には、伊波冬矢には用意されていない。ゲームシステムごと、冬矢らしくあれる別の世界を全否定するのが冬矢かな、って思う。
やっぱ私の中でニケって、同じ勇者より、伊波冬矢とか狂四郎2030の狂四郎とかそういう方向のがイメージとして近いんだよな、エログロこそないけど……。
多分勇者としての生き方より、愛する女に依存しているキャラ性が、自分の中でしかほとんど通用しない理論に繋がってるのかなぁ……って思う。