ボーボボが乗れる乗れないで勝手に一人で盛り上がってて思った事なのだが、私がレイモンド・チャンドラーにサッパリ乗れなかったのも、ボーボボ問題に似てるような気がする。
大いなる眠りしか読めてないから、もっと色々読んだらまた印象は変わるかもしれないんだけど……。レイモンドチャンドラーも、「男子がカッコイイと思うものの具現化そのもの」って感じがする。
大いなる眠りの主人公、フィリップ・マーロウって、多分男が憧れる男なんだろうね。捻くれていて、警察辞めて探偵してるけど、読者すらコイツの考えてることがよーわからん。美女に迫られるけど、絶対に手は出さない(アメリカの作品だからキスくらいはするけど)。けれどもその実、誰に理解されなくとも事件の追及をする、アウトローで渋い素敵なイケメン。そしてブラフの聴いた、口汚い台詞回し。
いかにも男の人が好きそうな(ド偏見)テンプレートじゃなかろうか。実際、翻訳者の村上春樹も、普段と後書きの雰囲気が違った。実際のところは知らんが、エッセイなどから見える村上春樹は基本落ち着いた男性って感じで、まあその語り口が私には落ち着くから好きなところがあるのだが、レイモンドチャンドラーを語る村上春樹は、ロボットや戦車、戦隊ヒーローを見て目をキラキラさせる男の子そのものだった。もちろん他のエッセイや、翻訳作品を語る時も楽しそうではあるのだけど、ちょっと空気が違った。と思う。女にはちょっとわからん世界というか。もちろんわかる人もいるんだろうけど。
春樹自体は普通に好きなんだけどねぇ……。衛藤先生の哲学心理学もそうだが、好きな作家の好きなものでも、なんかたまたま波長が合わない部分があるというよりは、性別による感覚の壁を感じる時があるな。まあこういう事って今のご時世にあんま言っちゃいけないのかもしれないし、私としても、個人的な感覚という以上の主張をする気はないラインだけど。
女にはわからんとか、男にゃわからんとか、そういう物言いって古いけど、やっぱどうしても別の生き物でもある壁ってどこかにあるとは思う。例え一切の偏見が消え去ったとしても、全くの感覚の壁がなくなるとは、個人的にはあまり思わないかな。小説家とか画家とかは、時代の壁に阻まれた人はいると思うけど、哲学者とかどうなんだろうな……昔から諸々の一切の壁がなかったとしても、女子であんまり大成する人が増えたとは、やっぱあんまり思えないんだよな……いや、確かめようがないけど。ああいう思いつめ方って、女の人はしないんじゃないかなって。ウェルテルも、今でいうダウナー、厨二病方向の男子のヒーローって感じするんだよな。時に死を招くほどの。