グルグル読んでる時、台本がないとまともな台詞を吐けないはずのカセギゴールドが逃げるククリに対し「シンデレラもう12時か?」などとアドリブでかっちょ良い台詞吐いてたり(それともアレも影でタテジワネズミ達が台本を提示し続けていたのだろうか?)、呪いで手品をしつづけるニケがジュジュに花冠つけてたり(かわいい)、なんかそういう、どうアホな事しても、どう酷い事してても作家の美しい根底が隠せていないようなものをほじくり出すのが好き。
カヤも初登場時、ニケとククリを表現する時小僧とか小娘じゃなくて「女の子」とか「男の子」とか言ってんのが良い感じに引っかかってしまう。レイドによると「冷酷な人物」らしいんだが……。まあ坊っちゃんって呼んで色々世話妬いてるレイドの存在もあるし、本来子どもに優しい男だったりするのかもしれん。多分衛藤先生は頑張って意識しないと汚い言葉とか出て来ないタイプやな。ギャグも意識しないと全てがじぇっとみたいな作品になってしまうのではないだろうか?
ハーメルンのバイオリン弾きもアレで意外と汚い罵倒みたいなのはあんまなかった気がする。なんか悪役が何言っててもどっか詩的というかカッコイイというか……。ラスボスだけ作者は唯一嫌いらしいんだが、なんか様になってるというか、あんなんでもカッコイイ感じ出ちゃってるというか……いやまあ言ってる事やってる事は確かにクズなんだけど。「そういう悪役」として綺麗というか……。いい意味でなんだけど、言うほど汚いゲスっぽくはなっていない気がする。
この辺の同期だと西川秀明先生は逆に罵倒のセンスがあり過ぎる。少年誌で売女!とか普通に出て来た気がする。別に本人がそういう人ってわけじゃないけど、なんか異様に悪党の言葉のセンスが上手い。アークザラッド2でもお医者さんに対し「たまにはお医者さんごっこもわるかねぇな♡まずは目ん玉クリッと繰り抜くかぁ♪ヒヒッ!」、あとシチュは忘れたが「てめぇら全員グッチャグチャの肉団子にしてやる!!」とか。アーク2序盤でも悪党が口封じにエルクに金持たせたりと小技が効いている。(※ここら辺のセンスは西川先生のオリジナルであり、元のゲームにはない要素)。後のアングラな話への作風変更は適材適所としか言いようがない。絵が上手すぎて何描いてもいい感じになっちゃうから、本人も周りもここら辺のセンスに長年気づかなかった説ある。
たまにあるよな、上手いのが逆に足引っ張ってるというか、何描いてもそれなりに出来ちゃうから逆に長所が見えにくいみたいな作品や作者。前にやったフリゲも「全部の要素が一定水準以上あるのに、なんでこんなプレイ後困惑するんだろう?」って思ったら、性癖が見えないというか、ごちゃごちゃに何の要素ぶち込んでも一通りそこそこ描けるから、どれが一番言いたいのか、或いは一番好きなのかわからん。みたいな現象が起きてた。読んでて「ここが一番イキイキしてるからコレが好きな部分、或いは得意分野だな」と思った部分もあるが、本筋に関係ないサブ要素だったので、多分作者はそれに気づいてない。レビュー掘っても他の人も困惑してたんだけど、困惑の理由はそれ(どれもそこそこだから、性癖もやりたい事も見えない)だと思う。
技術自体は高い方が良いに決まっているのは前提としても、下手な方が消去法で伝わりやすい・長所を見出しやすいって現象は確かに存在すると思う。
私はなんか↑の美しい感性の人を真似ようとして失敗してる事が多い気がするので、己の性格の悪さや気分の高低の激しさを自覚して生かす方がいいのかもしれない。自作を読み返しても、性格の悪い奴を書く方が多分イキイキしている。衛藤ヒロユキとか西村悠とかあの辺の作家の澄んだ感性に憧れてる時点で、ああいう感性の極みになるのってちょっと難しいんだよね。ああいう人らってのはおそらく、「最初からそういう感性の人」だから。
今アニメグルグルを見返したら、やっぱり良くも悪くも浮いてる台詞なせいか「シンデレラもう12時か?」って台詞が消えてた。「忘れたか お前ら オレを?」という直前のカセギゴールドの言葉が下手な感じが生かされた改変に。私のキッショい性癖は置いておくと、変えて正解だと思う。アニメの改変と言うのはこういう風に、原作の楽しい要素を伝わりやすくするためのブラッシュアップとして存在するんだと思う。
後半のメルヘンへの推移が良く語られる作品だが、伝説のザムディンが出て来る序盤の時点でもうセンスが隠しきれていなかったんだな……。まあこの時点で妖精とか出て来るしな。というか後書き漫画でもネタが降りてくることを「天使が降りる」みたく言ってたと思うが、それまんまグルグルメルヘンセンスやねん。
本来グルグルと言うか衛藤センスって「好きな人は好き」くらいで留まってしまう独自のメルヘン&SFと恋愛で、それとは別に、ギャグセンスが己の客ではない人も引っ張り込めるレベルだったから当時ヒットした、みたいな感じのような気がして来たな。ギャグ作家認識が強いと思うけど、童話作家に芸人の才能がズバ抜けて存在した(良くも悪くも)、みたいな感じのが正解のような気がする。まあそこら辺、衛藤先生本人が舞勇伝キタキタの後書きで言ってたように、本人が本当にやりたい事ってのはどの分野でもあんまウケないってだけの話かもしれんが。
童話作家としてレベル100くらいに優れていたとしても、芸人としてレベル999だったらまあ芸人センスに皆注目するよね、みたいな高次元の才能の食い合いみたいな作者っているよね。島本和彦さんとか三島由紀夫さんが作家としても優れているのに「なんか面白い人」みたいな認識が勝っちゃうみたいに。
真面目な才能に対してエンタメ的お笑いの才能ってのはどうしても勝っちゃうんだと思う。ポケモンの相性とかと同じ。真面目な才能が草タイプ単体だとすると、お笑いの才能は炎と虫と氷の性能全部持ってる感じ。ひとたまりもない。
逆のパターンで、作者と言うか作品単位なんだけど、ネタゲーとかネタ小説して作ってあるのはわかるんだが、「叙情的な切ないセンスが上手すぎてシリアスな笑いの反対、笑いの悲しみみたいな現象が起きちゃってるような事例」とかも何度か見た事ある。「ギャグやシリアスが滑って浮いている」のとはまた違う、作品の高水準な要素同士の高次元な殴り合いなんだ、こういうのは。