「紫陽花を知りませんか?」

 不可思議なことを訪ねてくる彼女の髪は誠に不可思議で、着色料いっぱいの甘ったるいアイスクリームとか、花の色を意識して作られたワンピースとか、そんな感じのスウィーティなパープル色をしていた。僕はと言うと、読みかけの本にうっかりスピン(栞代わりのヒモのことだ、)を挟むのも忘れて閉じてしまい、ついでにやたらへーたらびっくらこいてしまったものだから、本そのものを乾いた地面に落としてしまった。

「紫陽花を知りませんか?」

 聞こえなかったと思ったのか、女の人はもう一度一字一句全く変わらない言葉を僕に投げかけてきた。パープル色の髪が風にふわりと揺れる。花の香りがした。

「たくさんあったんです、ここに紫陽花が」

 彼女はなつかしむように辺りを見回す。しかしそこにあるのは砂場、ブランコ、滑り台、うんてい。平凡な公園にある平凡な遊具ばかりだ。僕はその平凡な場所に、本を読むためにやって来ていたのだ。あわれその読まれるための本は、部屋の床ですらない地面にぶっ倒れている。

「わかりませんが、」

 僕はなんとか言葉を絞り出した。

「こっちから見ると、あなたが紫陽花のように見えます」

 恥ずかしい口説き文句のような言葉。だが事実だ。彼女のパープル色の髪は、甘いアイスとワンピースだけでなく、彼女が口にした紫陽花の花にも似ている。紫陽花の花に見えるところは本当は花じゃないそうだがとにかく、記憶の中の濃いパープル色と全く同じ色だ。だけどハデハデな髪の美容院の兄ちゃんに染められたわけじゃない、ごく自然にずっと昔からパープル色です、そう主張しているようにきれいな色をしていた。花の藍染はこんな感じで自然な色が出るのだそうだが、まさか人体でもそういう芸当は可能なのだろうか。

 彼女がフッと微笑んだ。大人というか樹木の微笑み。おばあちゃんよりもひいばあちゃんよりもずっとむかしの微笑み。

「はい」

 問題を解いた生徒を褒めるような返事をして、彼女はスウッと溶けていった。僕はまた驚いた。今度こそ完全に言葉を失った。声が声帯ごと彼女の姿のように溶けて消えたようだった。



 後で地元の図書館の資料を調べてみたのだけれど、僕が本を読みに行った公園は遠い昔、りっぱな華族だか豪族だか、とにかく偉い人のお屋敷があったのだそうだ。家は大きく、庭は広く、時期になるとたくさんの紫陽花が咲き乱れていたのだとか。本来ならそういう家って文化財として残ってたりするのかもしれないけれど、火災か何かで紫陽花の庭ごと全部燃えてなくなってしまったらしい。

 僕はいろんな人のつてで、そのお屋敷の豪族だか華族だかの子孫さんとコンタクトを取ることができた。そして僕はまた驚いた。出迎えてくれたお姉さんが、公園であの日僕に問いかけてきた女の人と、全く同じ髪の色をしていたからだ。顔が違うから、お姉さんと間違えることはなかったのだけれど。

「うちの家系は何故か、こういう髪色の人間が、何世代ごとかに生まれてくるんです。それ以外に特に身体的な問題があるわけではないのですが、なにぶん目立つので本人や家族がいやがって髪を染め直してしまうことが多いんですよ」

 お茶をすすりながら、僕はお姉さんの言葉を聞いていた。僕は公園で起こったことをお姉さんに話した。信じてもらえるかはわからなかったが、そちらもちょっぴり不思議に慣れた家系の人で、僕の言葉を素直に信じてくれた。

「もしかしたら、彼女は紫陽花の庭があったことを忘れないでほしくて、こんな風に後々の人に自分と同じ色の髪を遺伝させているのかもしれませんね」
「迷惑な話ですね」
「ええ、でも……。髪の色が違うだけとおっしゃっても、それ相応の苦労があることは他人である僕でも想像できますし、このような混ぜっ返す言い方はいけないのかもしれませんが……忘れられるというのはきっと寂しいことだと思います」

 女の人が紫陽花を知っているかと聞かれた時、僕は答えられなかった。知りもしなかった。平凡な公園のある場所に、ずっと昔、紫陽花の咲き乱れる庭があったことなんて。



書き出し.meより「紫陽花を知りませんか?」
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