グルグル無印は今読むとアラハビカを除けばバトーハの塔というか、花の国編辺りが一番色々刺さるかも。花の国編って僕にはとてもできないと踊る三人の変態ばっか言われるというか、そもそもアラハビカ以降があんまウケ良くないけど。
ブリ照り焼きカップルの悲恋とか、バトルハート、恋のワガママの話とか、好きな人を閉じ込めるレイドと、何度だってククリをすぐに助けに行くニケの対比とか。
原作者作詞作曲の金のトビラにもあった、月の下にある花の国、というフレーズを漫画で表現するセンスも綺麗だしな。
ニケは成長しないというか、そもそもワガママというようなものがなく、成熟しきっているのではないか?みたいな意見を見て、そうだなと思った。ニケの恋のワガママがあるとしたら本当に素朴で、「好きな女の子に名前を呼んでほしい」だったわけだが、ここを2で改めて回収してくれなかったらニケが哀れ。
ニケはワガママを言う側じゃなくて、ワガママを叶える側だからな……。ククリちゃんのあまいものに当たる側だから……。
バトーハの塔の悲恋カップルって、「ワガママを言い合った結果」って感じというか、
ニケとククリがお互いワガママだったらあんな感じの悲恋もあり得たんだろうな。って思う。
ブリは照り焼きに限るという女のワガママに比重が置かれている話だが、ブリはソテーにした方が好きという男の要望もまたワガママである……と、私は思う。ミグミグ族って、同種族以外はワガママを叶えられるくらい、相手よりお兄さんお姉さん的じゃないと付き合えないレベルなのかも。ニケが年齢的にも性格的にもククリよりお兄さん的なのはもちろんだが、ジュジュもトマもククリよりか大人っぽい子だし。
ニケも成長がないわけじゃないと思うけど、
「ククリの為なら世界を救ってもいいと決意する」くらいしか目立った要素がない程度には、割と初期から達観しているのよね。それでも冒険序盤は魔物と戦う恐怖がコミカルながら描かれていた(ノコギリ山まで)のが後半になるとないだとか、こっそりグルグルへの恐怖があったのが、最終決戦辺りの描写でなくなってるのがわかるとか(一緒に魔法陣描いたり)多少なくもないけど。
そこまでやる尺がなかったんだろうけど、
やったところでキタキタ千手観音に呑まれてしまうのもわかるけど、アニメだと閉じ込めるレイドと何度でも助けるニケの対比がカットされているのは惜しいところ。アニメは特に、ククリを光の方へ、楽しい冒険へ引っ張り出す、というニケのキャラクター性が重視されているだけに余計に。まあアレだけ絵と動きで印象的に魅せられればいらないといえばそう。
闇魔法とかミグミグ族とか、使い手そのものは別に悪人はいないんだろうけど、光魔法に比べるとなんか不安定なものを扱っている関係上、絶対バトーハの塔みたいな事故は他にもあったよね……。とか思うと、そういうものが誇張されて行って差別みたいに行っちゃったりみたいなものはあったのかなって。
なんかやっぱり、考えれば考えるほどレイドだとククリは手に余るというか、
【出典 スクウェア・エニックス/衛藤ヒロユキ/魔法陣グルグル 12巻 112章 バトーハの塔(後編)】
ワンチンの話の中で、一緒にワガママな人として語られるような、ワガママをぶつけ合う同士だとそもそも事故りそうにしか思えないな……。ってことで、
ますます私の中でレイド×ククリはないなぁ、感がある。ニケより先に出会ってたところでバトーハの塔みたいな事故が起きたんじゃないかなぁみたいな。
ククリちゃんがバトーハの塔のカップルや2の魔王ちゃんになるような可能性は当たり前にあったというか、
彼女はたまたま、ワガママを叶えてくれるような王子に愛された幸運があるに過ぎない。もう一人の自分みたいなものだ。
彼女がバトーハの塔のカップルや魔王ちゃんに泣いて同情するのは当然といえよう。
ワンチンは塔のカップルの少女の所業に対し、「どんなささいな事でもわかり合いたかった」と語ったけど、まあその後の文脈的にも、これこそが一番の傲慢なワガママというか、
【出典 スクウェア・エニックス/衛藤ヒロユキ/魔法陣グルグル 12巻 103章 ウニョラーの恐怖】
ここのニケの独白のコマとか、
ギャグっぽく描かれているけど、どうしてニケとククリがバトーハの塔のカップルのようにならないのか?という点の説得力になっているように思うな。
ニケはそもそも、それぞれが見ている世界の景色は違うものだ、という認識がある。その上で、どちらの視点も必要なものだと語っている。相手の理解や共に在り続ける共存というのはそういうものであって、押し付けるものではないんだね……。
こういう
それぞれの視点、それぞれの世界、ってのも、今読むと衛藤先生の愛した哲学的なもんが見えるよな……。やっぱり私も少しでもグルグルの理解を深めるため、頑張って哲学書を読むべきなのか……
(挑んで挫折した)